村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで僕が思うこと

 読み手の置かれている立場によって、同じ本でもとらえかたが変わるのはあたりまえだが、こうも変わってしまうとは思ってもみなかった。

 村上さんは、日本を代表する作家であるが、ファンの人は知っているが、毎日のようにジョギングをこなし、フルマラソンを数多くこなす、かなりのランナーでもある。ランナーとしてはアマチュアだが、それでもかなりのレベルのアマチュアだ。そんな村上さんが本人の今までのランニング人生を振り返る本が、この「走ることについて語るときに僕の語ること」。

 いくつかの章に分かれ、時系列を行ったり来たりして、その時周囲に起こったことを交えながら、このエッセイは進んでゆく。やはり、村上さんが書くと、本人の走っている時の心境、太腿や膝の心境(の代弁)などがとてもよく伝わってくる。

 これは発売とほぼ同時に買ったが、その時は自分もジョギングをはじめておらず、そのせいなのか、単に怠けなのか(たぶん後者)、途中で挫折してしまった。最近の新刊「1Q84」が出るのを機にこの本をまた最初から読み返してみたのだが、ジョギングを始めてから読み始めた今、すごく「走る人」の気持ちがよくわかる。といっても、超短距離超鈍足ランナーの自分が何を言うか!と思うが、それでも・・・キロをキロ何分ペースで。とか具体的に書いてあるので、普段の自分のペースと照らし合わせて、あんなペースで走るのか・・・(汗)と思うことができる。
走りたくない日もあったり、走っていて季節の変わり目を感じたり。

 そして長距離を走って体力を維持するからこそ、あんなに長い、そしてすばらしい長編小説が書けるのか。と実感。机に座って万年筆で、鉛筆で、もしくはキーボードで文章を書くという作業は、体力を消耗しないから高い体力を維持する必要がない、というのは大間違い。村上さんは自分の中では「天才」というより「努力の人」というイメージがある。もちろんそんなことしなくても才能が湯水のごとく湧いてくる人。いわゆる「天才」の人はいるようだが、それを何十年も維持するのは難しい。膨大な物語を立ち上げるには、それなりの体力が必要なのだ。自分はただのしがないリーマンだが、ほとんどデスクワークだが、やっぱり集中力を持続させるには、体力が必要だと感じる。

 文中で「1Q84」の空豆さんのモデルはこの人なのかな?と思った人が何人かいた。こういうのもエッセイを読む楽しみだったりする。

 文中にもあるが、走れない言い訳は山ほど見つかる。でも自分も走らなければいけない。走ったあとは気持ちもスカッとする。これはほぼ100%です。

おわり。

こういう文章は、こういうところに書いた方がいいのかな~↓

走ることについて語るときに僕の語ること 走ることについて語るときに僕の語ること

著者:村上 春樹
販売元:文藝春秋
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